痙縮の冬が去って
初夏6月になった。
12月から翌年3月までの4ヶ月間は、高次脳機能障害を抱える俺にとっては痙縮の冬が続いた。
後遺症の残る左片麻痺の左手足は寒さでさっぱり言う事を聞かず、
健全なる右半身とのギャップに全身をコントロールする脳は機能不全を起こして、外見的には不機嫌な男と写る。
家内からも「何かおもしろくないことでもあるの」と勘繰られるが、本人はいたってマトモなつもりだ。
それでも日中の気温が20℃に達する頃には、痙縮からも解放されて楽になる。
つまり、生きている事が楽しくなる。
そして不自由な体でも、仕事に携わる事はうれしい。
車を運転して訪れる営業先が2階、3階で、階段の手摺が片側のみにある時こそ常日頃のリハビリ特訓の成果を示す時である。
杖を頼りに、一段一段と上昇や下降をくり返すが、
内心では(転倒・転落するとお客様に大変な迷惑をかけるぞ。しっかり昇れ、確実に降りよう。)と一人で鼓舞する。
こんな時に想い起こすのは、20年程前に作家の石牟礼道子が胎児性水俣病に生まれ、そして死んだ女性を書いた哀しい文章だ。
“きよ子は手も足もよじれてきて、手足が縄のようによじれて我が身を縛っておりました。”(花の文を── 寄る辺なき魂の祈り。)
俺は中学・高校と水俣の地で過ごした。
特に水俣第一中学校では、同世代の胎児性水俣病の仲間と共に学んだ。
今はこの文章に表現された症状が、いくらかは身体で理解できる。
まぁ、俺の場合は、本態性高血圧症(血圧の数値は上230、下160)を20数年に渡って放置して、思う存分に仕事に励んだ結果の右脳出血で今がある。
完璧な自業自得で、親のせいでも誰のせいでもなく、自己責任である。
つまり、他人をうらやんだり、呪ったりする事無く、明るく生きる事が出来るのだ。
身体に障害が残って精神力はタフになった。
日常を生きる事は問題解決の連続である。
会社を立派にするという終わりの無い課題解決の前では、日常の瑣末(さまつ)な事にクヨクヨはできない。
ましてや、自らの体調維持や再発への恐怖など問題にもならない。
飛躍の夏から実りの秋へ、そして再び痙縮の冬は必ずやって来るので、
覚悟と勇気を両輪として、今のこの時を全力で生きる事で精一杯である。
“端的只今の一念より外は、これなく候。一念一念と重ねて一生なり” 葉隠
(今回は、同じ病を生きる人からの応援メッセージへの返礼の内容です。)
脳出血社長の賦活コラム
株式会社金剛 社長 遠藤伸一