The joy of life is within yourself


いつまで探すの?
 外を見ても見つからないよね...

あなたの喜びは
 あなたの中にある

 


ミ・ミ・ファ・ソ・ソ・ファ・ミ・レ・ド・ド・レ・ミ・ミ〜レレ〜♪


晴れたる青空 ただよう雲よ
小鳥は歌えり 林に森に
こころはほがらか よろこびみちて
見かわすわれらの 明るき笑顔
花さく丘べに いこえる友よ
吹く風さわやか みなぎるひざし
こころは楽しく しあわせあふれ
ひびくは われらの よろこびの歌

ベートーヴェン「第九」の『歓喜の歌(喜びの歌)』(交響曲第9番の第4楽章)は誰もが知っている旋律ですよね。
このメロディーを聴くと、今年ももう終わりだな〜と感じます。
(偶然!! これを書いている今、隣りのピアノ教室からこの曲が)

「第九」は年末に演奏される曲としても有名ですが、
日本で初めて演奏されたのは、第一次世界大戦中のドイツ人捕虜たちの演奏でした。

年末に演奏されるようなったきっかけは、
第二次世界大戦の学徒出陣壮行会とその後の追悼で演奏されたことから広まったという説があります。

昭和18(1943)年12月に戦地へ赴く学徒たちの壮行会で演奏され、
そして戦後の12月30日には戦没した学徒兵を偲び追悼演奏会が行われました。

そのことから、日本では年末に「第九」の演奏会が行われるようになったそうです。
広まったきっかけには他の説もあるようですが、実際に12月に「歓喜の歌」が歌われたことは間違いないです。

 

そこで疑問に思ったことがあります。
『ドイツ人捕虜が日本で喜びの歌を歌う?』
『戦死した若い兵の追悼なのに喜び?』
とても不思議に思いました。

ですが、「歓喜の歌」の歌詞を見てみると、戦時中のドイツ兵の気持ちや日本の戦没者への想いが伝わってきます。
戦いながらも人間の奥深い想いが込められた「第九・歓喜の歌」には魂がこもっているのだと感じます。


おお友よ! このような音楽ではない。
もっと心地よく、もっと喜びに満ちあふれた歌を歌おう。
喜びよ! 神々の美しい霊感よ、天上の楽園エーリュシオンの乙女よ!
我々は炎の陶酔をもって、その天の聖域に足を踏み入れる。
あなたの魔力(霊力)によって、時代に引き裂かれたものも再び結ばれ、
あなたの穏やかで柔らかな翼のもとに全ての人々が兄弟となる。
偉大な成功を成し遂げた者よ。
一人の友の友となり、愛らしき妻を得た者よ。
ともに歓喜の声を上げよ。
そう、この地上にただ一人であろうとも、
己を大切にすべきと信じられる者も声を合わせよ。
しかしそれができぬ者は、涙ながらにこの輪より立ち去るがよい。

 

「喜び」とは、どこにあるのでしょう。
喜びを感じるには、その裏にある悲しみや苦しみを経験しなくてはなりません。
悲しさや苦しさを知ったからこそ、喜びを理解できるのです。

また、嬉しい気持ちになったとき、それが本当の「喜び」であるとは限りません。
このコラムを書いている私の場合は、この記事を読んでくれる人がいると思うだけで嬉しくなります。

それが「喜び」でもあるのですが、実は、そのもっと奥には本当の欲求があるのです。
それは、誰かと「繋がりたい」という欲求です。
読んだ感想が送られてくると飛び跳ねて喜んでしまうのですが、まだ会ったことのない人と繋がれた嬉しさが根底にあるのです。

 

SNSやブログ、YouTubeなどで発信されている人も同じです。
例えば、SNSにいいね!されたりコメントをもらうことで「喜び」を感じると思います。
同じくその奥には、人と「繋がりたい」という欲求を持っています。

人は、誰かに「認めてほしい」という承認欲求があります。
その承認欲求がある程度満たされている人なら、いいね!の数で一喜一憂したり、批判的なコメントに傷つくことはありません。

承認欲求が満たされていると、他者に「認めてほしい」と思わないので、
批判的な言葉を「そんな考え方もあるのね」と聞き流すことができるのです。
そして、また一つ勉強になったと喜ぶこともできるのです。

喜びの根底にあるものは、皆それぞれ違っています。
「人と繋がれた」「誰かに認められた」または「勉強できた」という欲求があるのです。

 

この欲求は年齢とともに薄れていきます。
若い頃は大勢の人から認められたいと思っていたのに、他者との摩擦や人間関係のストレスで、
人とはどうゆうものなのかを学び、100%分かり合える人などいないと気づきます。

そして大勢ではなく、少人数の特別な人だけに認めてもらえれば良いと考えます。
たった一人の人でもいいのです。
それが「喜び」となって、生きていくエネルギーにもなるのです。

もしも、そのたった一人さえもいないと思うのであれば、自分自身が認めてあげてください。
どんなことがあっても、自分だけは死ぬまで寄り添ってくれるからです。
この世で一番の理解者は自分自身です。
自分を認めてあげて、喜びを感じてみるのです。

「喜び」とは、目の前の現象に対して反応することではなく、
自分の感情が揺さぶられることに対して湧き上がってくるものなのです。

人の感情は常に揺れ動いています。
同じ出来事でも、その時の心境で感じ方が異なります。

家族の死など悲しい気持ちでいるときに、他人のハッピーな行事を心から祝福できるでしょうか。
感情はいくつもあり、普段なら、その瞬間瞬間で違ったものが出てきますが、
大きな悲しみがあった場合、その感情がウエイトが占めるので、
心から喜んであげることができなくなります。

ですが、それは仕方のないことです。
人には感情というものがあるので、無理に押さえ込んで他者と同じ感情になることはできません。

もちろん時と場合によって、感情を制御しなければならない時もあります。
学生の頃を思い出してみてください。
合格発表で自分が受かって友達が落ちていたら、心の中はハッピーだけど、
友達の手前、喜ぶことを我慢するのではないでしょうか。

 

人間でいる限り欲求は無限にあると思います。
仏教では108つの煩悩に悩まされると言われます。
自分の根底にある欲求が何なのかを知ると、とてもシンプルに考えられるし、
無理に感情をコントロールする必要もないことに気づきます。

欲求や煩悩を無くすことはできません。
持論ですが、この煩悩108つが無くなったときが死なのだろうと思います。
「喜びたい、楽しみたい、嬉しくなりたい」と考えているうちは、まだまだ死はやってこないのかもしれませんね。